卒業生寄稿『カイシャ人の憂鬱』最終回

昨年度卒業生あさいし・こう(仮名) さん寄稿の『カイシャ人の憂鬱』最終回です。最終回は、これまでの三回分を合わせたのと同じくらいの長さ!(本当は当初は連載の予定ではなく…一回完結一続きの文章でした…卒論もこんな調子の長さだっ…ゴホゴホ。)

小さな会社に就職した「私」が戻った「西」は、なぜ帰る場所だったのか?「本当に面白い」と言える自由とは?感涙のラストへ。

*第一回「西へ」 第二回「カイシャ人たちのシャカイ」 第三回「イケメン好きの矜持

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最終回 「自由」を思い出すために

私は、大学卒業後、社員30人程度の、小さな出版社に就職した。
(社員は私と同じようなクソサブカル崩ればかりなのに結構不思議なあたりではあるが)
自分が勤めている会社が出しているのは、自分の感性と美学を指針とするならば、「趣味の悪さの極み」みたいなものばかりである。
たとえば、これまで嫌っていた、「趣味の悪い」本 (細かく言えばもっとあるがここでは取り急ぎ5つ)

①ミーハー (本屋大賞、オリ○ン、ダ・○ィンチ、王様のブ○ンチで紹介されるような本を好むのは趣味の悪さの極み。よって、本屋に大量に平積みされていたり前面展開されている作品は積極的に無視をする)

②自己啓発あるいは、「馬鹿でも分かる」系(原著はむつかしい哲学・経済書や、時事問題を小学生でもわかるくらい誰かが簡単にしたもの) (馬鹿男読本)

③恋愛・スピリチュアル(馬鹿女読本)

④泣けるナントカ

⑤オサレサブカル(SNSやブログの文章をぜんぶ平仮名にするような(脳内)ゆる(下半身)ふわ馬鹿女が好きそうなもの)

もう一度言う。
自分が勤めている会社が出しているのは、自分の感性と美学を指針とするならば、まさしくこの、「趣味の悪さの極み」みたいなものばかりである。
しかし、仕事である以上、売らねばならない。売り込まねばならない。

この前、あまりにも学生気分の抜けない舐めた態度をとりまくっていたため、会長直々に呼び出され、

「学校と会社の違いはわかるか?」

と訊かれた事があるのだが、
曰く、「学校は金を払っているが、会社は金を貰っている」
のだ、という。

すなわち、組織(会社)にとって、「利益をもたらさない」人間は不要であり、「組織にとってマイナス」(金を払う価値のない)者はしかるべく排除される。
この場合の排除とは、学生時代の排除とはむろん意味が異なる。
この半年で、結果を出せなくて異動させられた人、たった一ヶ月で自主退職に追い込まれた人、明日から来なくていい、有給消化に入ってと告知された人、
文字通りの意味での、組織からの排除である。
別にあなたがどんなに変な人間で学校に友達がいなくても自分で死なない限り死なないが、無職になったら下手すると死ぬ。
別に学校でいじめられても3年かそこら我慢すれば終わりは来るが、無職を3年もやっていたら下手すると社会的に終わる。

しかし、私が今現在、本当に懸念している事は、
クビと無職のレッテルを恐れて、取引相手に心にもない、思ってもいない宣伝文句・嘘八百を並び立てねばならない苦痛とか、
つまらない本ばかり売らねばならない、自分が自分で本当に面白い・良いと思っている本が作れないこと、

ではない。

ディストピア小説の金字塔、全体主義国家によって個人の生活・思想全てが統制される管理社会の恐怖を描いた傑作、ジョージ・オーウェル『1984年』(高橋和久訳 早川書房)の中に、こんなやり取りがある。

「自白は裏切りじゃない。何を言おうと何をしようと、それは問題にならない。感情が問題なんだ。かれらの手によって君に対するぼくの愛が消えるようなことがあれば、それこそが裏切りというものだろう」
(中略)
「かれらにそんなことができるはずないわ。さすがにそれだけはかれらにもできっこない。どんなことでも――あることないこと何でも――言わせることはできるわ。でも信じさせることはできない。人の心のなかにまで入り込めはしないもの」
(中略)
「かれらも人の心のなかにまでは入りこめない。もし人間らしさを失わずにいることは、たとえ何の結果を生み出さなくとも、それだけの価値があると本気で感じられるならば、かれらを打ち負かしたことになる」

非常に有名な名作であるからオチを言ってもネタバレにはならないだろうが、
『1984年』はこの辺りがラストへの伏線となっていて、国家の体制に疑問を抱いていた主人公は、とうとう思想警察に捕まり、尋問と拷問を受ける中、最後には、心から、党と当の支配者を、「愛するように」なる。

罰や拷問や排除の恐怖から、心にもないことを言うこと、すること、その行為そのものは真の敗北ではないのだ。

真の敗北とは――

誰か、あるいは何か、によって、私が私の私だけにしか理解できない感性と指針を忘れてしまうことにある。
誰か、あるいは何か、のそれに、取って代わられてしまうことにある。かつてあったはずの、自分のそれを、忘れてしまったこと自体を忘れてしまうことにある。

私は、今でも休日は本屋に入り浸っている。
しかし、注目して見る場所はかつてとまるで違っている。
学生時代は、くだらないものとして積極的に避けていた、平積みされている棚、全面展開されている棚にあるタイトルをじっと眺める。今どんな本が売れているか知るため。
ビジネス系雑誌やパソコン系雑誌など、男性向けの棚を着目する。今どんな特集が旬なのか把握するため。雑誌は一つの指針である。
自己啓発コーナー、料理コーナー、健康・スポーツ系コーナーも見る。売れている書籍は何か。
リアルの書店で、どんなフェアが組まれているか調べる。電子書店のキャンペーン提案の参考のため。
Kindleのランキングを1時間に1回くらいチェックする。
それだけではない。いや、「客側」としてならそれでもいいし、まだ、客側としてならある程度の矜持は残っている。

肝心なのは、「売る側」として。
動きの早いインターネット書店担当ということもあり、
芥川賞に又吉が決まり大ニュースになれば、『便乗で芥川とか太宰売りましょう!』と言い、ヨルタモリが終われば、『タモリ本売りましょう!』と張り切り、
戦争も地震も大雨も、安保も、ぜんぶは“1冊でも多く本を売るためのネタ”である。“今日は安保法案の採決なので安保本を強化”
そこでは数多の人の不幸も幸福も未来もなくすべては、“1冊でも多く本を売るためのネタであるか”という基準に一元化される。
ネット書店にフェアや特集を提案するときは、エクセルのDL数集計表をみて、上から順番に、「候補」としてセルに色を塗っていく。私だけではなくて、きっと誰も中身なんて見ていない。
良い本だから推すのではなく、自分が面白いと感じたから適切な場所に推すのではなく、一緒くたに、“売れているからあるいは売れそうだから”推す。
「この作品は配信1ヶ月足らずで7万DL~」「Kindleで総合3位!!」が最大の推し文句であり良い本かそうでないかの基準。
別に誰かに言われてイヤイヤやっているわけではない。“心から”自分の行為と発言として行っている。
そして時たま、そんな自分にぞっとするのである。

ドラマでも、小説でも漫画でも、
自分の信念と美学を捻じ曲げない、こだわりを貫くものこそが、「主人公」であり、「正義」である。
視聴率ばかり気にする奴、芯が無く大衆あるいは組織に媚びる奴は、「悪役」であり、「くだらない存在」として描かれる。
10万部突破!なんかどうでもよくて、オリコン何位かなんかどうでもよくて、
自分が面白いと信じたものを、誰かにも、面白いと思ってほしい、
100人のうち90人がよく分からなくたっていいから、5人が、めちゃくちゃ興奮するようなものを世に発信したい。

と私はたぶん思っていたはずだし、
出版社とか、テレビとか映画とかなんでも、何かを生み出し世に出すような会社にわざわざ「売る側」として入りたがるような人間は皆思っていたはずである。
誰だってそんな「正義の主人公」になりたがっていたのだけれど。

私の思う、趣味を仕事にしない方がいい真の理由は、このあたりにある。
それは、何ヶ月後か、何年かあとか、
ふと気付いた時、かつて持っていたはずの自分だけの感性と美学と、そして矜持の輪郭は、もうぜんぜん、ぼやけてしまっているから。
そしてそのうち、ぼやけてしまったこと自体にさえ、気が付かなくなるから。
そしてそれをきっと、俗に、
「カイシャ人らしくなる」
と言うのだろう。

学校とカイシャの違いはなんだろうか、というより、
学生とカイシャ人の違いはなんだろうか。

自分の指針がカイシャでもガチガチの管理教育的教師でもなく、自分だけの利益と快楽のために規定されていた頃、それは確かに自由であった。
そんな自由な季節は、今振り返っても、大学時代にしか無くて、だから、18年間住んでいた自分の地元よりも、4年間だけ居た、関西のあの場所こそが、
真に自分が「帰る」と呼ぶべきところである気がするのだ。

了(カイシャの中での自由とは?をテーマとした次作へ、たぶん、勝手に、続く)