教員エッセイ:謝辞の人間学1

謝辞の人間学

入学式やガイダンスも終わった春先にのんびりと書き始めてすっかりその存在を忘れていたこのエッセイ。学位論文の執筆が忙しくなって来るこの時期に「鬼が笑う」話題かもしれないが、学位論文の「謝辞」について考えてみよう。

1.誰・何に対して感謝するのか?

通常、「謝辞」とは、学位論文などの何らかの文章の後に、この文章の作成にあたって貢献を受けた人たちに対して感謝の意を述べるための文章である。多くの場合は、論文執筆の際に「指導」を受けた教員、調査や資料収集に際してお世話になった人たち、アドバイスをくれた研究者仲間に書かれるが、論文を書くための日々の生活を支えてくれた「家族・恋人・友人」などに対して書かれることもある。

しかし、自らの文章に対して何らかの形で「貢献」してくれた人やモノをよく考えてみると、「謝辞」をする範囲を決めることはとても難しい。

まず、普通に考えてみると、自らが書く文章そのものに対して最も貢献しているのは、自分と同じような問題意識を持った論者の書いた論文や本であろう。彼・彼女らが書いたものがなければ、そもそも自分の論文の着想は浮かばなかったかもしれないし、文章に肉付けしていくことはできない。また、そうした先行研究や論文の多くは、過去の脈々とした研究の伝統の上に築かれている。
そうすると、謝辞の本来の対象は、今生きている人や、実際に会って生身のコミュニケーションをとっている人たちよりも、本の向こうにいる人や、場合によっては、すでに何十年も前に死んでいる死屍累々の人たちということになるだろう。

もちろん、そうした「本」という形になっている死者や、会ったこともない遠くの他者に対して謝辞を述べる場合もある。ただし、多くの場合は、そうした人・モノたちへの感謝の念は、論文の最後の「謝辞」という形ではなくて、きちんとその人が書いたことを引用して、参考文献・引用文献を挙示する形で示されている。というよりも、そうした形で示すことが「ルール」とされている。逆に言うと、文献挙示の形で示されていないということは、過去の先人に対する謝辞がないこと以上に、学問に対する謝辞がないということを意味している(つまり、本当はダメな論文である)。

言ってみれば、引用をしっかりしろ、ということなのだが、しかし、私はここで説教をしたいのではなかった…。本当に言いたいのは、自分の研究や文章に対して大きく貢献をしてくれているが、原理的に「謝辞」の対象として見えにくい人や先行する研究・著作といったものがあるのではないかということだ。

私たちは、私たち自身の「目」で周りの世界を見ているという風に思っている節がある。自分の関心は自分のものだし、自分の結論や論理は自分のものだ。しかし、本当にそうであろうか。たとえば、「自分の考えていること」そのままだと思うような本に出会ったことはないだろうか。あるいは、友人や先生に「自分の考えていること」を自分以上に言葉にされてしまった経験はないだろうか。

私たち自身の「目」は、そうした経験の連続の中でできあがってきている。つまり世界をまなざす「目」自体が、周りの何かによって侵食されている。そして、その何かは「引用」などと言ったわかりやすい形では表わせない。自分でも言葉にできないような力を与えてくれるようなものであり、その存在は自分自身の一部ともなっていて見えないこともある。(たとえば、私には論文執筆などで煮詰まった時に、自らの思考を回転させるために読むある著作がある。それは私の研究テーマとは直接の関係はない。)

「目」などという比喩で、もってまわった言い方をしたが、論文を書いていく私たちの思考そのもの、つまり、先行研究やデータなどを解釈するやり方自身が、無意識に何らかのものに大きな影響を受けているとも言える。これはベテランの研究者であれば、マルクスやウェーバーなど、自分が若く感受性の強い時に読んで影響を受けた著作であるかもしれない。また、自分の周りにいる「自分以上に自分のことを理解されてしまう」「超えられない」先生や先輩なのかもしれない。

このような私たち自らの「目」を形成している人やものに関しては「引用」を含めた「謝辞」が難しいのではないだろうか。自分の世界観を支えている、表に出したくない「秘密の奥義」として、ひっそりと人目に触れないようにとっておきたいと思うのかもしれない。あるいは、自らの「目」を形作った「親」のようなものに対する複雑な感情なのかもしれない。

感謝という言葉は、日本社会において多用されるが、本当に感謝を示すべきものに対して感謝を示すことは思いの他難しいのかもしれない。そう考えれば、(当然書かれているだろうと思っていた)誰かの論文や本の謝辞に自分の名前を見つけられないことや、論文を引用されないことをもっと私たちは喜んでもよいだろう。

(続く[かもしれない])

*初回は堅くなってしまいましたが、このエッセイでは謝辞をめぐる諸々のエピソードを軽ーく書いていくつもりです(3回くらい?)。ただし、次回はいつになるか未定。(井口)